INTERVIEW
哲学と金融機関、一見遠い存在に感じるこの二つが、「資産形成がもたらす価値とは何か」という問いを念頭におき、「しあわせ」について多元的に可視化する調査研究を発表した。
今回の研究に携わったのは、京都大学教授で哲学者の出口康夫氏。数多くの論文・著作を世に放ち、コロナ禍に発信した「われわれとしての自己(Self as We)」をテーマとした対談や講義、「立ち止まって、考える」が大きな注目を集めた。
「投資は価値観を実現するための手段であり、社会に対するはたらきかけ」と語る出口氏に、今回の調査研究が意味するところや、自身の感じる幸せなどについて、話を聞いた。
出口康夫:京都大学大学院文学研究科教授
京都大学副プロボスト、文学研究科副研究科長、人社未来院副研究院長
1962年大阪市生まれ、京都大学文学部卒、同大学院文学研究科博士後期課程修了
哲学と金融機関、異色の組み合わせで「しあわせ」について考える
ー今回、『お金のデザイン』社と共同研究をすることになったのは、どのような経緯があったのでしょうか。
出口康夫氏(以下出口):「お金のデザイン」は、投資運用などを行う株式会社で、その取締役副会長/ファウンダーである廣瀬朋由氏が、コロナ禍において私のYouTube講義を視聴されたのがきっかけです。お金を通じて実現されるべき本当の幸せとは何か、真の価値とは何かを、どのように概念化し、言説化すべきかを模索されていた廣瀬さんが、私の講義を踏まえ、共同研究を持ちかけられたのです。
最初はどうやってコンタクトをとって良いかもわからず、7割方断られるのではないかと案じながら、京都大学の子会社である「京大オリジナル」に問い合わせをされたと聞いています。
ー私たち素人からすると、哲学と投資は、一見遠い世界のように感じます。今回のお話を聞いて、どのような理由から引き受けようとお考えになったのでしょうか。
出口:確かに、哲学と金融機関の共同研究というのはあまり例がないかもしれませんが、幸せや価値を一から考え直したいという廣瀬さんの問題意識は、哲学にとっても王道的で古典的な問題だと感じたからです。
また、SDGs債やESG投資などに代表されるように、近年、投資の世界でも、資産を増やすことに還元、回収されない、プラスアルファの価値が語られるようになっています。私自身は投資をしたことがないのですが、投資の世界に対して、経済的利益だけではない価値に関する何らかの新たな視座を提供することで、結果として社会を少しでも良くすることができないかとも考え、共同研究を引き受けることにしました。
ー改めて、今回の調査研究の概要について教えてください。
出口:今回の研究は、『「しあわせ」の再定義と定量的尺度作成のための調査研究』というタイトルを掲げ、「各個人が自分固有の幸福観を可視化し、それを実現するための適切な意思決定をサポートする尺度」の作成を目標にスタートしました。個人が漠然と抱いている「幸せ」のイメージを明確にし、投資を狭い意味での経済的価値だけではなく、それぞれにとっての「幸せ」実現の手段とするための尺度です。
作成した尺度は「ライフ・インテグレータ尺度」と名付けられ、「わたし」型幸福観と「われわれ」型幸福観という2つの幸福観と幸福を構成する4つのファクターを掛け合わせ、合計8つの項目から成り立っています。
ー「ライフ・インテグレータ尺度」という名称が意味するところについて、もう少し詳しく教えていただけますか。
出口:幸せとは何か、ウェルビーイングとは何かについては、古来、様々な考えが提案されてきました。今日でも、何を幸せと見るかについては、人によって様々な答えがありうると思います。しかし、全てではないにしても、多くの「幸福観」の間には一つの共通項があるのではないかと考えました。
我々は日々、様々な行為を行う中で、「なぜ、その行為をしているのか」と自問自答することもあろうかと思います。それぞれの行為には、それぞれの「なぜ」があり、それぞれの「理由」が考えられると思います。さらにまた我々は、それらの「理由」に対しても、さらなる「なぜ」を問うこともできます。このような「問いの連鎖」「理由の連鎖」は、どこまでも続くように思えるかもしれません。でも、どこかの段階で、「それが結局、「僕の幸せ」だから」「それが「私にとっての幸せ」をもたらすから」という「理由」ないし「答え」が登場すると、人は、それ以上「なぜ」を問うことをやめるのではないでしょうか。このように「幸せ」とは、その具体的な内実は様々だとしても、いずれにせよ「なぜ」という問いを止めるストッパー、最後のアンサーという役割を担っているのではないでしょうか。
異なった行為に対しては、その都度、異なった「なぜ」が考えられ、結果として異なった数多くの「理由の連鎖」が生まれます。でも、それら様々な「理由の連鎖」は、結局、すべて「幸せ」という一つの答えに流れ込んで行きます。すべての行為の理由は、最終的に、「それが幸せに結びつくから」という一つの答えに収斂し、集約されていくのです。このように、「幸せ」とは、我々の行為の理由を一つに束ねる役割も担っているのです。言い換えると、それは、人生の目的をバラバラのままにしておくのではなく、一つの目的へとまとめ束ねる、即ち「インテグレート」する機能を持っているのです。
「幸せ」にしろ、何にしろ、ある言葉や概念の本当の意味は、それが果たしている役割にこそある。そのように考えると、「幸せ」の定義は様々だとしても、それらが行為や人生の「理由」「目的」「価値」の「まとめ役」、すなわち「インテグレーター」という同じ機能を果たしているとすると、「人生の目的のまとめ役」「ライフ・インテグレーター」こそが、「幸せ」の実質的な意味だということになります。そのような考えから、今回作成した尺度を「ライフ・インテグレーター尺度」と名付けたのです。
ー何のために生きているのか、それぞれの考えや価値観を束ねる役割を持っているんですね。
出口:私は別に、人生の意味や目的がバラバラであってはいけないとは考えていません。あえてバラバラな人生を生きるという選択肢があってもいいとすら思っています。しかし、もし皆さんが、ご自分の人生を振り返り、それを一つに束ねてみたいと思われた時には、この尺度を参考にしていただければと思っています。
スピード重視のビジネスだからこそ、100年単位で考える哲学に魅了される
ー今回の尺度は、4つのファクターと8つの項目から成り立っています。この8つに整理した理由や、迷った点、議論になった点などはありますか。
出口:先にお話ししたように、この尺度には「わたし」型幸福観と「われわれ」型幸福観が含まれています。その背後には、まずは「われわれ」の幸せ、「われわれ」のウェルビーイングがあって、その上で初めて「わたし」のウェルビーイングが生まれるという私自身の考えがありました。
ただ、これはあくまで私の考えです。「われわれ」が最初に来る人もいれば、「わたし」が先だ、という人もいるでしょう。いずれにせよ、自分の「幸せ」観を見つめ直すに当たって、「われわれ」と「わたし」という軸に照らして考えることも重要ではないかと思い、このような項目を入れてみました。
個々の項目を決めるにあたって、一番やりとりがあったのは「充実感」です。今回の研究は、「お金のデザイン」の廣瀬さん、さらには京都大学で哲学や論理学を研究している准教授の大西さんと共同で進めたのですが、お二人の人生観、価値観の違いが如実に出たのがこのファクターでした。
ビジネスの世界で生きてきた廣瀬さんと、人文学の研究をしてきた大西さんとでは、充実感に対する感性が大きく違ったのです。廣瀬さんは「挑戦」に重きをおくというお考えですが、それに対して大西さんは「いや、ゆっくりする方がいいですよ」なんて言うわけです。それぞれ異なる人生を歩んできた二人が、ああでもないこうでもないと議論しあって、結局それぞれの考え、「挑戦」と「ケア」を二つの極とする項目ができあがったのです。
ー「お金のデザイン」さんと一緒に調査研究をする中で、ビジネスの世界との価値観や文化の違いをほかにも感じたことはありますか。
出口:「お金のデザイン」さんだけではなく、いろいろな企業の方々と一緒に研究をさせていただく機会があるのですが、一番違いを感じるのは時間の流れのスピード感です。
ビジネスの世界、特にトップマネジメントのレベルでは、時間がコストという考えが浸透していて、これが正しいと判断したら、その後、ものすごいスピードで物事が進んでいきます。例えば、役員クラスの人と話しをしていて、その場にいない人に確認したいことが出てくると、「今から〇〇社の社長に聞いてみます」と、その場で携帯で電話をされることがあります。大学や学問の世界ではあり得ない光景ですね。
ーやはり学問、哲学の世界ではもう少しゆっくり時間が流れている感じがしますか。
出口:そうですね。特に哲学は百年単位、千年単位の営みです。議論していても、すぐに18世紀のカントや、17世紀のデカルトの名前が出てきたり、アリストテレスが引っ張り出されたりして、はたからみたら馬鹿馬鹿しいかもしれませんが、みんな顔を真っ赤にしながら「彼は間違ってる」とか「いや正しい」とかやり合う光景が見られます。
ー時間軸が違う世界なんですね。だからこそ先生のようなご研究は、目先の利益を追求しなくていいという利点もあるように思います。
出口:だからこそ、われわれ哲学とビジネスのマッチングが求められているという事情があるのではないでしょうか。企業のトップは分刻みで動いていて、投資などは、場合によっては、秒刻みの世界でしょう。そういう時間の流れにいながらも、いや、そうであるからこそむしろ、中長期的な視野、場合によっては超長期的な観点で考えないといけないと思われる方も出てくる。そうした問題意識の一つの向き先が、哲学なのかもしれません。
我々哲学者は、日進月歩とはほど遠い、動いているかどうかもわからないような、ゆったりとした大河の流れにたゆたっているわけですが、そのような中で、日常の物事から一歩、距離をとって、それを長い目で見るという癖が自然と身についているということもあろうかと思います。通常、ハイスピード走行をされている方々が、時間軸を長くとって考えたい時、鳥瞰的、俯瞰的な視点を持ちたいと思われた場合に、我々のような違った時間スケールで生きている者のところに来られるというのは、それなりに分かる気がします。
重要なのは「価値観を言葉にして共有すること」
ー冒頭、SDGs債のような投資行動に対する価値観のお話しがでましたが、経済的合理性のみを追求した投資と社会貢献につながる投資、これらの関係性はグラデーションのような位置づけと捉えていらっしゃいますか、それとも別のものとお考えでしょうか。
出口:私は、経済的合理性を社会的な価値と切り離して議論すること自体が問題だと思っています。経済的な豊かさも重要ですが、それは様々な社会的価値や幸せを実現するための一つの手段でしかありません。それを切り離して、それだけ単体で追求すると、手段と目的を取り違えてしまう危険性が生じます。さらに経済指標は数値化しやすく、測定もある程度は可能なので、そこだけに目がいってしまいがちです。結果として、GNPやGDPといった指標が過剰に注目され、それを伸ばすことが自己目的化した場合、経済成長に伴って、むしろ社会全体の息苦しさ、生きにくさが増すというGDPディストピアや経済成長ディストピアといった状況が起こりかねません。むしろ、社会的価値とは何なのか、幸せとは何かを明確にした上で、それを達成する手段として経済的合理性を活かすという、順序の逆転が重要だと思います。
ーまず社会が良くなるという目的があり、そのための手法の一つとして経済発展があるということですね。
出口:そうです。ウェルビーイングを社会の「良さ」の一つの指標だとすると、まずはウェルビーイング、それも単なる「わたし」だけではなく、「われわれ」のウェルビーイングの実現や増大を目標として立て、経済の指標の改善をそのための手段として位置づけるべきなのです。
ー今回の調査研究の発表の中にも、「健全な資産形成とはまさに幸せを実現しようとする行為に他ならない」という言葉がありますね。
出口:確かに、投資の成功そのものが自己目的化するケースもありうると思います。例えば、株価の高下に一喜一憂しつつ、株式投資そのものをゲーム感覚的に面白いと感じ、楽しむという心情は、私には経験はありませんが、十分に想像できますし、理解もできます。しかし、投資とは基本的には、やはり自分や社会の価値を実現するためのものです。それは幸せであれ、何であれ、価値を実現するための一つの手段と捉えるべきだと思います。
そのために重要なのは、何よりもまず、目指すべき価値とは何かをきちんと言語化し、共有すべき人と共有し、それを明確に自分の目の前に掲げることだと思います。これができていないと、将来に対して漠然とした不安を抱く中で、とりあえずお金を持っておきましょうということになってしまいます。お金が、そして経済が自己目的化してしまうのです。
価値を考えるということは、自分個人だけではなく、周囲の人々、ひいては社会、さらには地球環境も含めて、この世界が「より良くなる」とはどういうことかと考え、そのためにはどうすべきかを考えることです。毎日そんなことを考えていては日々の生活に差し支えるかもしれませんが、少なくともたまにはそういったことも考え、自分の行動を見直し、アジャストしていく。そういう生き方の一つの指針として、今回の尺度を活用していただければと思っています。
「給与明細を見たことがない」、出口教授が考える投資のあり方とは
ー先生ご自身は投資はしていないということですが、ネガティブなご意見でもよいので、投資や資産運用に対するお考えがありましたらお聞かせいただけますか。
出口:投資が嫌いだとか、何か特に理由があって投資をしていないわけでも、しないと決めているわけでもありません。単にズルズルと、投資をしないまま今に至っているというのが正直なところです。そもそも投資以前に、私は自分の給与の額もよく把握していません。昔は給料日に袋綴じの明細書が来ていましたが、私は、実はあれを破って中の数字を見たことがないんですね。その話をすると、さすがに同僚の哲学の先生に呆れられたことがありました。なので、哲学者は誰も彼も自分の給与明細を知らない、というわけではありません。念の為。今でも、私の秘書さんは私の預金の残高を知っていますが、私は知らないんです(笑)。
このように投資に関しては素人以下の私ですので、「お金のデザイン」さんとの共同研究では、いわば文化人類学者が、まったく異なるカルチャーを持ったコミュニティに「よそもの」として参入し、一定の距離感を保ちつつ、参与観察をしているような気分を味わうことにもなりました。それはそれでよかったのではないかと思っています。
ー距離を置いてみたときに、投資というのはどういうものだと感じましたか。
出口:投資というのは、いわば、社会に対する一種の投票みたいなものだと私は思います。
選挙のとき、人は何を考えて投票するかというと、やはり社会をより良くしたい、より良くして欲しいと思って一票を投じられることも多いと思います。そうだとしたら、その際には、良い社会とは何かということを、漠然としたイメージにすぎないにしても、自分なりに考えて、投票先を選んでいることになります。このように、投票とは、我々が持っている一定の価値観にもとづいた、社会に対する一つの働きかけなのです。そしてこの働きかけは、我々が、一人一票という形で、平等に持っている権利です。
同じことは投資にも当てはまります。これまでお話ししてきた考えに即して言えば、投資とは、単にお金を儲けるための行為ではなく、自分を含めた社会をより「良く」、より幸せにするためになされる社会に対する働きかけだと言えます。もちろん、投資額は人によって差がありますが、私の持つ1万円と他の誰かが持つ1万円は同じ価値を持ち得ます。そういう意味で、投資という働きかけには、平等性が担保されている側面もあるのです。
自分が持つ価値観に照らして、例えばSDGsに対して前向きな企業や、高齢化社会に資するサービスを展開している企業の活動を評価した上で、それらの企業に対してなされる投資は、社会に対する自らの意思表示や働きかけ、即ち一種の投票と捉えることができるのです。
一人で生きているというのは幻想、「われわれ」を広げ、環境や教育に
ーちなみに、先生ご自身はどのようなときに幸せを感じますか。
出口:幸せに関する私の考えのポイントは二つあって、一つは、先ほどからお話ししているように、「わたし」ではなくて「われわれ」の幸せが先にある、先に来るべきだということです。
もう一つ、私の考える幸せというのは、単に心地よい状態を享受するものではないということです。「カウチポテト(※編集部注:寝椅子(カウチ)でくつろいでポテトチップをかじりながらテレビやビデオを見て過ごすような、自分一人の中に閉じこもって、精神的な安らぎを求めるライフスタイル。コトバンクより引用)」と呼ばれるようなあり方、ソファに寝転がって、お菓子をつまみながら好きな映画を見ているという状態は、本当の幸せとは言えないと考えています。
本当の幸せとは、「遂行順調性」と私は呼んでいますが、身体を動かしながら、一定のリスクを冒しつつなされている行動が順調に推移しているときに感じる身体感覚を、その典型例とするようなものだと思います。
みなさんも、最初は、うまくいくかどうか全く分からない、雲を掴むような話だったプロジェクトが自分や他人の行動によって、だんだん明確な形を取り出して上手く回り出したとき、「物事がうまく動きだした!」という感覚を身体で感ずることがあると思います。例えば哲学の研究といった、身体を積極的に使う営みでなくとも、考えが上手くまとまり出した瞬間、「物事がうまく回り出した」という身体感覚的なウキウキした感情が湧いてくることがあります。失敗するリスクをあえて犯す行為とは、「冒険」に他なりません。本当の幸せは、このように、単に座って快楽を享受している状況ではなく、身体を用いて「冒険」、それも自分一人で行う「単独冒険」ではなく、仲間と一緒に行う「共冒険」を行なっている最中に、それが上手く行き出したという「手応え」を感じるところにこそある。私は、そのように考えています。
このような「遂行順調性」としての幸せの「旬」は、状況が上向いてきたと感じられる行為の途上の瞬間にこそあります。その時が、一番幸せな時間、楽しい瞬間です。行為が完遂されてしまったら、たとえ結果が良くても、むしろ寂しさを感じ、幸せの度合いが下がってしまう。「遂行順調性」としての幸せとは、そのようなものなのです。
ー何となく、わかる気がしますね。では最後に、今後、深掘りしたいテーマや、関心を持っている分野などはありますか。
出口:最近は「われわれ」をテーマに研究を続けていて、どこに行っても「われわれ」の話をする「われわれおじさん」になっています。今まさに、その「われわれ」プロジェクトが動き出している時なので楽しくやれているのですが、今後はそれをいろいろな方向に展開していきたいと考えています。
「われわれ」の哲学を展開していく一つの方向は環境問題です。私の言う「われわれ」は、単に人間だけではなく、人間以外の生物、無生物、自然環境をも含みます。「われわれ」をこのように考える以上、「われわれ」のウェルビーイングについて語る場合でも、例えば自然環境の「ウェルビーイング」をも視野に入れて論じる必要があるのです。
もう一つの方向は教育です。現代の社会で、自然環境をも含めた広い意味での「われわれ」が見失われがちなのは、「わたし」が自分一人だけで生きているような気になっていることにも原因があると言えます。私に言わせれば、これは単なる幻想ないし誤解にすぎないのですが、そのような誤解が社会に広がっている一つの原因は近代の教育システムにあると考えています。例えば、日本でも、明治の中頃から、小学校に「学級」という制度が取り入れられますが、その背後には、児童が互いに切磋琢磨することで、個人が持つ能力、即ち「できること」を伸ばし合うべきだという考えが控えていました。
もちろん、このような考えにも評価すべき点は多々あります。その一方で、そのような教育思想は、「できること」に人間の尊厳や「かけがえのなさ」を見出すことで、すべての人に「できること」の競争を強い、結果として、自分一人で生きることが「できる」という幻想も植え付けてきたのではないかと、私は考えています。
今後は、特に初等教育、義務教育において、「できないこと」をより積極的に評価する考えを打ち出して行くという課題にも取り組んでいきたいと思っています。教育のあり方を変えるのには、何十年、何百年かかるかわかりませんし、私自身に残された時間もそれほど長くはないと思いますが、先に述べたように、哲学とは百年単位で物事を考える営みですので、焦らず、諦めず、考えを深めていきたいと思っています。